下総精神医療センター

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第五回薬物乱用対策研修会 > 研修会プログラム > 第2講義

日本の自助活動の歴史と求められる展開

日本ダルク代表
近藤恒夫

日本の自助活動の歴史

 日本においては1974年、最初のAAミーティングが東京の喫茶店で始められ、1975年3月、東京蒲田で行われたステップミーティングで日本のAAが公式にスタートした。1975年、アルコール依存症から回復したカトリック・メリノール宣教会の米国人神父によって、当時の埼玉県大宮市にアルコール依存症者のための治療共同体「大宮ハウス」が創設された。上記4つの特徴を備えた日本で初めてのこの治療共同体はAAの方法を取り入れて運営されこの中から何人かアルコール依存症から回復する者が出た。1978年、彼らの中で日本各地に同様の治療共同体を設立しようという機運が高まり、三ノ輪、大阪、山谷、スズラン(女性)、横浜、名古屋、札幌とそれぞれの地域に設立されていった。それらはメリノールアルコールセンターといったが、その頭文字をとって通称マック(MAC)と呼ばれ現在に至っている。
1981年、AAで受け入れられていた回復中の薬物依存者によって日本で初めてのNA(Narcotics Anonymous)ミーティングが東京で始められた。
マックでは薬物依存者も受け入れてはいたが、アルコール依存者とは異なった治療共同体での治療の必要性が認識されるようになり、1985年東京の下町、荒川区にダルク・ホームを開設した。
この入寮プログラムによる治療効果は予想外のもので、着実に回復者が育っていった。回復者のなかには引き続き、施設のカウンセラーとして勤めようとする者も現れ、全国規模で集まるクライエントに対応するため、1989年名古屋に、1990年横浜に相次いでダルクが新たに開設することとなり、現在全国に50ヶ所68施設を数えるまでに増えていった。
ダルクが新しく開設されるのとほぼ同時にその地域のNAミーティングも増えていき、現在では週に429箇所(2013年6月)のミーティングが開かれている。

求められる展開

 日本の社会は自助グループが育ちにくい土壌である。9時5時で終わり、長期休暇をもらえる職場なんてめったにない。海外では1か月ぐらい休暇をもらい、自助グループのイベントに参加している人たちがうらやましい。そういった国々の自助活動はやはりパワフルだ。日本では職を得た人たちが活動に積極的に参加していく余力を残すことが難しい。
薬物依存症者は「自己喪失感」を抱えている。自分を取り戻すことが回復だとしたら、矯正施設で“指示通りに動くこと”を何年やらせても、過剰適応を習得するだけで自己喪失感は消えない。本当の回復には新たなアイデンティティを構築し、自由、感謝、善意、創造性を育んでいけるような教育的な視点を取り入れていかなければならない。

 ダルクは当事者活動であり、ある意味草の根運動である。そのため、全国のダルクが本部からコンピュータで送られてきた指令に従って動くように、均質化する必要は全くない。あくまで水平的な性質を保てばいいのである。このようなダルクのいいところはニーズがあればアメーバのように増殖していくことができる点である。過去28年間、スタッフは潰れてもダルクは潰れなかった。
しかし、それゆえに各ダルクが何をやっているのかが見えづらい構造になってしまうことも事実である。ダルクをはじめて28年たった今、私:近藤恒夫は自分の役割が限界に来ていることを感じることが多くなった。それはたとえば、各ダルクへの刑務所へのメッセージのオファーが急増したことなどに表れている。法務省がこのようなオファーをしてきたことはかつてなかったことである。もちろん、いままで精神科病院ぐらいしかメッセージを届けることができなかったダルクにとって、刑務所の壁を越えてメッセージを伝えることができるようになったことはダルクの歴史の中でもターニングポイントではあった。
ところが、こうした活動を行うようになってからダルクや自助グループに異変が起こってきたのである。問題は、家もない、金もない、何もなく再犯を繰り返し、ドン底の生活に慣れきってしまったような人たちがダルクを直接訪問するようになったことである。彼らはダルクのミーティングも知らないし、刑務所内のプログラムにも乗れないような人たちである。そういう人たちがダルクに集まってくるようになった。また、彼らは自助グループにも当然流れ込み、NAは荒れて、閉鎖しなければならないグループも出てきている。私たちはこのような人たちがダルクのみならず、自助グループすら破壊する力を持っていることを認識しなくてはならない。
そして、ダルクのスタッフは彼らに生活保護をかけたりする仕事に忙殺され、本来の薬物依存リハビリテーションの仕事に手が回らなくなってしまう。これはダルクの危機である。
以上のことを踏まえて、ダルクを作った私は、ダルクに何が足りないのか? 何があれば健全な運営ができるのか? を考えてきた。

その解決

 この問題を解決するべく私が考えていることはインテグレーションセンターを中心とする組織である。
今日、刑務所から出てきた人をフォローアップする仕組みとしてこのインテグレーションセンターが必要といえる。地域に出所者を戻していくという仕組みができることは、地域社会における一種の※PFIといえる。これは、国家の予算を使わないことがポイントであり、これは現在までありえなかった薬物依存回復の支援活動ということができる。私は、ありえないことを実現するために、(国には)協力するけど、支配はされたくない。つまり中立な立場が維持されることが必要と考える。
一部執行猶予制度によってやってきた利用者が、長期にわたるアセスメント(3か月ぐらい)見極めるためのエントリーを行い、その後、ダルクやほかの施設へ受け入れてもらえる体制作りを目指す。今のところ、この体制作り以外、刑務所出所者のフォローアップの解決方法は見当たらないと考えられる。
私は今後、この計画を発動することを決めている。そのことによって、ダルクを健全に運営できると考えている。






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