下総精神医療センター

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第五回薬物乱用対策研修会 > 研修会プログラム > 第5講義

∞型連携における義務衝突と今後の課題
―「通報しない態勢」の社会的認知のために―

北海学園大学
法学部教授 飯野海彦

 はじめに 本講では、先ず、規制薬物乱用の事実を認知した医療従事者の刑事訴訟法上の告発義務の履行及び告発の権利の行使と当該医療従事者が負う刑事法上並びに私法上の守秘義務との衝突について論じた後、麻向法の通報義務に関する検討を行う。そして、援助側が「通報しない態勢」を取ることによる刑事司法体系への効果を検討しつつ、「∞型連携」推進の今後の課題について述べていく。
Ⅰ 法解釈上の問題点
1.告発義務と守秘義務 規制薬物乱用の事実を医療業務上認知した医療従事者が公務員である場合、刑訴法239条2項により告発義務を負い、その不履行は、国家公務員法乃至地方公務員法の定めるところの懲戒対象となる。しかし、この告発義務履行については、当該公務員の所属する行政機関の行政目的に適った裁量権の行使が認められるものであり、薬物依存という疾病治療、ひいては規制薬物需要の削減という医療機関としての行政目的に適う限り、告発義務の履行は免れるものである。また、当該医療従事者が刑訴法239条1項により告発はその権利となる民間医療機関に所属する者である場合でも、告発が義務となる公務員である場合でも、刑事法上あるいは私法契約上の守秘義務を負い、更に公務員である場合は国家公務員法等による守秘義務も負う。医師が治療目的で採取した尿から違法薬物を検出し、捜査機関に通報した事例についての最高裁判例は、これを「正当行為」とするものの、あくまで採取された尿の証拠としての利用に関する判断であり、司法への協力行為が一律に医療従事者の守秘義務を解除するという判断ではないと考えられる。一方、医師が捜査機関に患者の血液を提出した行為を診療契約上の義務に違反すると判示した下級審判例もあり、通報等司法協力が守秘義務に優先されるとは限らない。
 他方、∞型連携実施に当たり、援助側が規制薬物乱用者を匿うところとなってはいけない故、取締処分側からの刑訴法197条2項に基づく照会が合った際、援助側は、対象者の尿に薬物陽性反応が出ていることを直ちに伝えるべきか否か。是とするならば、援助側の接近性を阻害することになる。しかし、否であれば、援助側が薬物乱用者を匿うところとなってしまう虞がある。この点に関する検討は、講師自身の「内なる今後の課題」である。
2.麻向法上の届出義務 麻向法58条の2に基づく麻薬依存症者の都道府県知事への届出義務は、麻薬取締官や検察官による通報も含めて殆ど履行されていると言い難く、最早規制薬物の統制手段として機能していないといえる。立法論としては、この届出義務は廃止すべきものと考えるものの、当該規定の在る現行法下においては、取締機関も届出義務を履行していないと思われる現状における医師に対する処罰を用いての届出義務履行を迫る法運用の不当性を訴えるほか、届出先である都道府県知事を∞型連携に取り込むことを提案する。
Ⅱ 今後の課題
1.刑事司法体系の限界 
1)通報しない体勢への誤解と刑罰への過信 援助側が「通報しない態勢」を取ることに対し、「犯罪を見逃す態勢」と批判されることがある。サンクション(制裁と報奨双方を合わせたもの)を用いることは、社会統制手段の基本であり、ルールは処罰によって守らせるということは、誰しも考え付くことである。わが国では、戦後のヒロポン流行以来、薬物乱用に対しては、犯罪化→厳罰化により鎮静化を図ってきたことで、諸外国のような薬物問題の深刻化を回避してきた経緯がある。しかし、刑罰は副作用が強い薬品のようなもので、他の手段による犯罪統制が可能ならば、その手段によるべき。実際、一般の犯罪についても、社会政策、家庭教育、地域の統制力といったインフォーマルな犯罪統制が大きな役割を果たしており、刑罰を用いての刑事司法上の犯罪統制は世で考えられているより、その役割は小さい。また、薬物乱用の厳罰化による「沈静化」後も、乱用の根絶には至らず、「第三次薬物乱用防止五か年戦略」においても、刑事法上の対策のみでは不十分であることが自覚的に示されている。
2)「通報しない」=非犯罪化の主張ではないこと ∞型連携は、規制薬物乱用が犯罪とされているからこそ機能する。すでに規制薬物依存に陥った者は、当該薬物の自己使用が犯罪であることが、依存を治療しようとする動機付けとなるし、患者の同意を得た上で検挙されない形での援助側からの取締処分側への情報提供があればこそ、検挙をおそれて断薬しようとする。それでも、乱用をやめられず検挙される者がいれば、他の依存者に対する見せしめ=一般予防の役割を果たしてくれる。規制薬物依存でない者は、勿論、自己使用が犯罪であるからこそ手を出さない。
3)暗数部分の取り込みと規制薬物需要の削減 犯罪は、何らかの端緒により取締処分側に認知されない限り、統計上「暗数」となる。犯罪としての検挙は、規制薬物乱用者にとっても強烈で、断薬の強い動機となりうるものの、先述のように、刑事司法体系には限界があり、全ての薬物事犯の取締りは不可能である。そもそも、その忌避性により、規制薬物の乱用は、取締処分側から逃れる形で、つまり隠れて行われる。ここで、援助側が規制薬物依存治療の傍ら、取締処分側に通報するならば、依存者は治療を求めず、地下に潜ることになる。反対に、援助側が決して通報せず、接近性を保てば、地下に潜って暗数となっていた乱用者が、援助側の懐に入ってくることになる。かくして、規制薬物依存を絶ち、規制薬物需要が削減されるならば、闇のサービス業である供給側(暴力団等)も、規制薬物供給の罪に対する厳格な取締りの不利益と考量した結果、商売にならないと供給をやめ、薬物犯罪全体も減少することとなる。
 2.援助と取締の協働 
 規制薬物依存に罹患した患者に援助のみを用いて対応すると、規制薬物乱用を見逃し続け、乱用を反復させる結果となる。これは、先述の公務員の告発義務を解除させる援助側行政機関の行政目的に却って反することとなる。また、同様に、規制薬物依存に罹患した者に、処罰のみを用いて対応すると、後述のように処罰を回避しようとするそれらの者の一部に地下に潜っての規制薬物乱用を反復させることとなる。援助・取締それぞれ単独で対応しようとする者は、完全な体系を利用しておらずに、薬物乱用という犯罪を暗数化させ、社会の平穏を阻害することになる。そこで、援助側は、取締側からの刑訴法197条2項に基づく照会に対し、或いは機関相互の協定に基づき、対象者の同意を得た上で、直ちに検挙されない形で情報提供を行うべきである。対象者の同意があるならば、守秘義務違反は問題とならない。これは、援助側単独での欠点を補完する態勢で、この態勢を取らない場合の違法性についても検討を行う。
 他方、取締側も、取締機関としての厳格な取締りの傍ら、面接相談、起訴猶予、現在検討中の刑執行一部猶予、保護観察等あらゆる機会に、対象者に援助側機関の利用を呼びかけるべきである。取締と援助側が協働して完全な体系を利用してこそ、薬物自己使用犯罪の減少という双方の目的が達成されることとなる。これは刑事司法体系単独での欠点を補完するもので、この補完の態勢をとらない場合についての違法性も検討する。
3.今後の課題
 Ⅰ1.で述べた公務員の告発義務に関する裁量権行使は、当該公務員が地方自治体に所属する場合、その最終的担保は地方議会の承認となる。議会の承認を得るためにも、∞型連携が「犯罪を見逃すシステム」であるとの誤解を受けないよう説明責任を果たす必要がある。
 また、これから医療機関を訪ねようとする麻薬等の反復乱用者を∞型連携に取り込むための「次善の策」として、麻向法58条の2による届出がなされても、都道府県知事や厚生労働大臣から取締機関に通報されることを意味しないことを周知する必要があるものの、これには種々の困難が伴う。麻公法第5章の制度廃止こそ「最善の策」である。
そして、刑事司法体系側にあって最大の組織・人員を抱える取締機関であり、犯罪に関する第一次捜査機関である司法警察職員の∞型連携への取り込みこそが、今後、最大・最重要の課題となる。近年、警視庁のみ、その取り込みに成功したものの、他の都道府県形については前途多難である。
 おわりに 平成20年8月に薬物乱用対策推進本部が策定した、「第三次薬物乱用防止五か年戦略」には、関係機関・団体の連携を密にすることが掲げられているものの、「通報しない」という保障には触れていない。また、平成22年7月薬物乱用対策推進会議策定の「薬物乱用防止戦略加速化プラン」には、取締処分側により検挙された後の方策のみが記されている。
 人の手に拠る薬物乱用者の把握には限界があり、「通報しない体勢」の堅持により、「暗数」となりかねない依存者を∞型連携に取り込むこと。これが、規制薬物需要を削減し、ひいては供給を含めた薬物犯罪がなくなることに繋がると大風呂敷を広げるつもりである。





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